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Dining Bar CitaCita
(インドネシア料理店)
Design Gallery CitaCita
(チーク材家具店)
Arts & Crafts CitaCita
(アート作品ネットショップ)
 

1.その根本にあるもの…経営者の迷いと気付き

 1998年12月大阪の長堀通にインドネシア料理店CitaCitaを開業して3年半が経過した。飲食業の経験がない中での船出であったが、多くの御客様に励まされ支えられてナントカ3年を経過することができたことにまずは感謝したい。

 よく御客様や雑誌、TVの取材者にこんな風に尋ねられる。「どうしてインドネシア料理店を始められたのですか?」…「インドネシアに住んでおられたのですか?」「インドネシアに関係するお仕事に就いておられたのですか?」またはた「ご主人がインドネシアの方ですか?」エトセトラ…。しかしどれも私には当てはまらない。残念ながら、8年前にパックツアーでバリに行ったのが私とインドネシアのささやかな出会いにすぎず、YMCAで週1回のインドネシア語講座に通っていたのも二年ほどしかない。その私がなにゆえ突然インドネシア料理店を始めてしまったのか?正直言って自分でもその本当の動機は釈然としない。しかしスハルトの退陣と前後した暴動が、私を触発したことだけは事実のようだ。

 その頃、私は企画者としてそれまで働いていたところでの将来展望が掴めず、仕事に全力投球できていない自分自身に手を焼いていた。少し前に大病を患ったということもあって、少し生き急いでいた時期でもあった。そんな中、最初に起こった偶発的なスラェシでの暴動が私の心を大きく揺さぶった。当時インドネシア語を教えてもらっていた中国系インドネシア人(マカッサル出身)の家も暴動で店じまいを余儀なくされ、彼への仕送りも経たれた。経済的な影響ももとより彼の内面の悩みは相当のものだったように思う。これまでインドネシア人であることを疑わずパンチャシラ(多様性の中の統一という国是)の精神に誇りさえ感じていた彼にとって、中国系であるというだけで店も生活も奪われ悪の根源のように扱われることへの怒りと失望。まさに国家と民族の狭間で苦しむ姿をみて、日本人である私自身のあいまいな存在に大きな疑問を持った。そうこうしているうちに暴動はインドネシア全域へと広がり、まるで革命的状況が生み出されていった。そして誰もが予想だにしなかったスハルトの突然の退陣。レフォルマシ(改革)時代の幕開けであった。この状況のなかで日系企業に勤めていたインドネシアの友人が職を失ったり、多くの友人が生活の危機を経験していた。ぬるま湯の日本にいる私達には想像を絶するインドネシアの状況。私の愛するバリでも焼き討ちが起こった。建国わずか半世紀のインドネシア、その多民族国家に暮らす人々の、国を想い、民族を愛する気持と熱情に圧倒される日々。毎日インターネットで情報を得ながらも「何もしないしできない自分」という存在も情けなかった。日本のNGOにも一度は関心も持ったが、なぜか政治的すぎるような気がして、インドネシアの友人達の気分と乖離しているように感じたので、そこには参加できなかった。大阪でインドネシア人と交流できる場所も探したが見つからなかった。ちょうど領事さんに日本語をボランティアで教えていたりもしたので、そこからも少しは雰囲気を察することもできたが、私にできることは何もない。なにかが私のなかで弾けた。すでに98年の4月には独立して会社を設立していたということも相俟って、突如、店を始めようと思い付いたのだ。インドネシア人コックによる専門料理店なら、かならず在関西のインドネシア人やインドネシアファンは来てくれるに違いない。そうしたら交流の場を提供できるし、インドネシア人を雇うこともできるのでは?という、お粗末で安直な考えだった。

結果は苦労と勘違いの連続だった。

 当初はCitaCita(日本語の意味は夢や希望)という名の通り、多くの人達の夢を乗せて出発した。在日インドネシア人と日本人の交流、そして将来はレフォルマシの中で芽生えているインドネシアのスモールビジネスと大阪の中小企業のネットワーク化など、想いは深く大きいものだった。しかし現実は、景気の底を素人集団が這い回っているに過ぎなかった。共に私と歩んでくれたインドネシア人も所詮、日本でのビジネスは始めてのこと。大阪の中小企業にとっても飲食業にとっても未曾有の厳しいこの時期に、資本力も経験もない素人集団が、だたその想いだけで船出してしまったのだから、その苦労は今振り返っても背筋がぞっとする。多くの方々に大変なご迷惑と心配をおかけしたものだとつくづく自分の思慮のなさを反省する。

 少ない賃金だが賃金だけはなんとか工面して払い続けて来たものの、家賃や仕入費も滞り、ご迷惑をおかけした。経営者としての私の給料も、開店前は30万円だったものの、すぐさま10万少々に、しかもそれさえ、しょっちゅう未払い金に変わってしまう。資金調達と言っても私は今までフツーのサラリーマンだったのだから、バックに何もない。だただた公的資金しか頼めない。年収700万の課長職を蹴って潔く独立したのは良かったが、大学生の子供の仕送りさえままならない日々が続く。雇われ人だった時には感じることもなかった不安と恐怖。3人の子供の母としても失格だ。給料を家に入れられない上に、毎晩家路に着くのは午前様だ。夫も給料取りの身の上。普通なら家族に見放されても当然という状況である。そんな中、夢を同じく船出した仲間達の間にも失望や葛藤が始まり、悲しい別れも経験した。

 それでも私は意地になってこの店を守ってきた。それは私自身の試練だった。

 経営者になるということ、飲食業を営むということ、インドネシア人を雇うということ、どれも初体験だったけど、私はそこから多くのことを学んだ。

 体力も経験もない私のような経営者にとってできることは何か?当時の日記には毎日同じ繰言が書かれている。夜も寝られない日々が続いた。とにかくインドネシア大好き、そしてインドネシアによって癒された自分の存在。そこにこだわることで、エスニックでもない無国籍でもない、本当の味と雰囲気のインドネシア料理店を作っていくしかない。これしか私にできることはないではないか!コンセプトはインドネシアそのものなのだ。飲食というのは一つの形態であり、私が好きな人々が集まる空間でもある。出会いと感動と郷愁がある店。調理師でもない私が飲食事業をする意味はここしかない。そう決めて3年間、我慢の連続だった。今ようやく大阪のインドネシア料理店ならCitaCitaと人が言ってくれるようになってきた。

 相変わらず店の経営は厳しい。経営の観点からは見直さなければならないことはたくさんあるけれど、ようやく私の中で、出発当時のわくわくする気持が蘇ってきた。もう一度初心に戻って、真にそれらを実現するためには、私自身が経営者として成長するしかないんだという、当たり前だが一番大切な結論に達した。経営者としての喜びや意味は人それぞれで違うのかも知れないが、私が今一番喜びとしたいことは、多くのスタッフを恒常的に雇うことのできる経営的な力を持つということだ。そういう人間になりたいと思う。

 まずはインドネシア料理店CitaCitaを繁盛店にしないといけない。そうすることで多くの人々を雇用することができ、その家族を養うことができる。そしてそのスタッフの能力が活かされることによって、お客様にサービスを提供することができる。しかもその経済行為が継続し循環することこそ、インドネシアを好きになってくれる人々の輪を広げていくことなのだと思う。それが経営する側に立つことを選んだ、私のポジションから来る任務なのだと自覚するようになった。今回店舗移転の道を選んだ基本は、遅まきながら私自身の経営者としての自覚から始まっている。
コンセプトはインドネシアそのものを貫きながら、しかし一方で繁盛店にするにはどうするのか?現状のマーケットをみるならば、これはまさしく矛盾する命題だ。しかし敢えてこの命題にチャレンジしてみたいと思う。この実験は遣り甲斐のある実践だ。

 

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