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ラガッシュの住民の頭上には常にいくつかの太陽が輝いている。だからラガッシュの天文学者は「夜」の存在を知らず、夜空の星を見ることが出来ない。そのために彼らは、自分たちの宇宙に無数の恒星があることを知らず、ラガッシュ人の天文学では、宇宙には恒星は数十個しか存在しないとされている。そして、六つの太陽の背後にかろうじて見える星の光の存在を信じ、本当の宇宙像を知る者は、異端の信仰者として白眼視されてしまうのだった。しかしある時、ラガッシュに恐ろしいことが起きる。 私たちの地球では、幸いにも一日に一度太陽は沈み、私たちの頭上には無数の星が輝く。ラガッシュ人とは違って、おかげで私たちは、私たちの宇宙について知ることが出来る。人類が培ってきた科学知識の束は、私たちに沢山のことを教えてくれる。惑星と恒星はタイプが違う星だ。遠く輝く星雲は実は沢山の星の集合体である。宇宙の果てにはこうした星雲がさらに無数にある。そしてこうした宇宙が、膨張を続けていることや、兄弟のような外の宇宙につながっているかも知れないということまで。 アシモフが「夜来たる」と言う作品にこめた真のメッセージとは何か。
< 京都五山・禅の文化展 >今夏の暑さはケタが違う。8月16日には、岐阜県多治見市と、埼玉県熊谷市で、観測史上最高の40.9度があっさりと記録された。その猛烈な熱波が少しだけひいた18日、上野公園の人込みをかきわけて、東京国立博物館へ出掛けた。「足利義満600年御忌記念『京都五山・禅の文化』展。京都五山の発展の陰にあった政治的背景、残された詩画軸に見られる文化的側面まで、テーマ別にまとめられた素晴らしい展示会だ。
南北朝時代の禅宗界を代表する名僧・夢窓疎石は、鎌倉〜南北朝と、政治権力がめまぐるしく交代する中でも、常に権力者の庇護の元にあって、天龍寺の開山となる。夢窓派はその後も足利氏の保護を受けて、京都五山の主流となっていく。このへんの事情をふまえ、個性豊かな風貌の、歴代名僧達の肖像画や坐像を見ていると、この時代京都禅宗界の一面も見えてくる。禅宗界の勃興のためには、世俗の欲と血にまみれた権力者たちをも、説き伏せながら、教義を広めていく力量が必要であったのであろう。 そして圧巻はやはり、第五章(最終章)の「五山の仏画・仏像」展示である。特に、鎌倉時代、性慶作とされる「宝冠釈迦如来坐像」(重要文化財、京都・永明院)の精緻な美しさと有無を言わせぬ力強さの前には、足が地面に釘付けになったような思いがした。その近くに置かれた「弥勒菩薩坐像」は、京都・鹿王院の主仏の裏に、客仏のように安置されているものらしいが、これも、数百年の時を経てもなお、研ぎ澄まされたような静寂を纏い、見る者の心を強く捉える波動を放ち続けている。 こうした優れた仏像と対峙すると、見る者の心は、私たち人間という存在と自然界全体・宇宙全体との結びつきという、巨大なイメージ空間へと放射されていく。特に前述の「弥勒菩薩像」の頭上に無限宇宙を戴いたように見える「宝冠」などは、私たちの心そのものが持つ「宇宙的な力」つまり宗教的想像力を表現しているように思える。そして、仏教における「無限輪廻」的宇宙観や、究極的「無」の概念などは、実は最も現代的な物理学的宇宙論と符合するところも多い。 禅者が、超人的な努力を持って続ける、内観的洞察の目指すものとは何か。 < 無限へのあこがれ・禅による浄化 >仏像や仏画が持つこうした宇宙的な広がりの力はどこから来るのであろうか?コペルニクスが地動説を唱えて、太陽系像を革新したのは16世紀のことである。アインシュタインが相対性理論を創設するのは20世紀である。禅の求道者たちは、コペルニクスやアインシュタインのように、望遠鏡や数学を駆使することはしない。しかし、仏教的世界観や、禅が持つ悟りの力には、近代の西洋科学を凌駕するような、無限への到達力が秘められている。
禅では、仏像などに対する礼拝より、自らの中にある仏性という「ほとけ」を見出すための修行を重んじる。私たち人間という存在も、それはそのまま大宇宙の一部なのであって、その本質的な性質は、もともと私たちの中に備わっているものである。ただ普段の生活において人間には、表面的意識を覆い尽くす欲望・煩悩があるために、その本来の「ほとけ」の姿が見えないのである。したがって、禅の修行では、ひたすら人間の表層的意識を取り払い、言葉による論理や理屈を越えていく。全てを滅却した果ての悟りを求める、永遠の求道がその神髄である。 < 一利一害 >この稿がネット上にアップされる頃には、第二次阿倍内閣の顔ぶれも明らかになることと思う。その政界人事の駆け引きの最中、メディアは防衛省のトップ人事問題を賑やかに書き立てた。小池防衛相による省内更迭人事に、内閣官房長官が待ったをかけたという。 「省」という文字原義には、訓読みの「はぶく」という意味がある。目を細めて注意して見るということであり、余計な部分や無駄なものを「はぶく」ことを言う。本来、政治というものは、世間にはびこる、問題や事件を、それらが雑草のようにはびこる前に刈り取って「省いていく」もので無ければならない。 一利を興(おこ)すは一害を除くにしかず。 (蒙古)耶律楚材 「一利一害」の原則は、政治の世界だけのものではない。宇宙物理学のような科学においても、禅の修行においても、その探究の本質は「繁殖する情報の枝葉を省き、希少な真実の種子を選び出す」という、地味で堅実な作業である。センセーショナルな発表や、奇異な科学仮説などが飛び交う「似非科学ジャーナリズムの雑音」は「真実の探求」とは無縁であることが多い。禅を創始した、達磨(ダルマ)禅師が、洞窟の壁に向かったのも、この「雑音」から自身を隔離するためだ。 < インターネットの百害 >私たちは、限りのある人生を生きている。私のような中年を迎えた人で、余命百年以上という人はいない。限りのある人生だから、より豊かな情報を求めて、より多種多様な娯楽を求めて、人生をより芳醇なものへ育て上げようとする。 しかし、現状のインターネット社会は「一利を興す」どころか、毎日毎時間、誰もが「百利を興す」ことに夢中である。そして一方では手のつけようのない「百害」も噴出している。ティーンの間で人気の「プロフ」というものは、大都会の繁華街で、自分のプライベート情報を掲示する行為に等しい。そんな大胆な個人情報の開示が「プロフ人気ランキング」や「お小遣い稼ぎ」という動機のもとで、日常化していく危険。こうした流れは、誰にも止めようがない。今の社会には、犯罪が起きてから対症療法的に対応する以外、これを抑止する知恵はない。ネットによる金融犯罪が本格化するのも、ネットバンキングや電子証券が動き出すこれからだ。 先月、とある高校の体育館の水道が、汚水管につながっていたために、運動部の試合に参加中の生徒が集団中毒をおこした、という新聞記事を目にした。体育館の改修中に、上水道の管をあやまって、施設洗浄用の中水道の管につないでしまったのが原因だった。 クリエイティブ・コモンズという、著作権管理に関する新しい手法を提言した、ローレンス・レッシグ氏が、自著「Free Culture」の序文で以下のように述べている。 私たちの人生は、あらゆるものに接続され続けていく。インターネットの影響から遮断された生活に移行するということは、社会そのものから遮断された生活をするということに等しい。「上水道」「下水道」に常時接続されてしまった配管の網目の中で、私たちはインターネットという「混濁の情報」の世界を渡って行かざるを得ない。 冒頭紹介したアイザック・アシモフの本職は生化学者だった。SFの巨匠という顔の陰で知られることは少ないが、科学者の立場から、現代人にむけた数多くの警句を残している。高度情報社会に潜む危険についても述べている。しかし残念ながら、インターネット社会の勃興を見ることなく、1992年4月6日に72歳で亡くなってしまった。もし今日存命であったら、インターネット社会を舞台に、どんな物語を語ってくれただろうか? インターネットという、豊穣なる情報の宇宙。この輝く宇宙というものの陰に、隠された「真実の宇宙の姿」を探し始める人材が求められているのかも知れない。それを、人々は「現代の禅者」というのであろうか。東京国立博物館・平成館展示室に鎮座されていた、夢窓疎石禅師の坐像に聞いてみたかった。
著者プロフィール: 佐々木 和郎(ささき かずお) |
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