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| ミストラルさえ吹かなければ、南仏は冬でも穏やかな気候だ。 ただ漠然と何もかもうまく行くと信じていたあの頃が嘘のように感じてしまう。 エクスーマルセイユ大学の造形美術科、アルル写真学校準備コース、フランス語コースの3カ所を掛け持ちし、毎日する事がいっぱいで、よくも悪くも日本を懐かしんでいる余裕などなかったのだ。 10月に始まった各履修コースも年をあけ前期の終盤を迎えていた。それなりに成果を感じつつも、僕は毎日耐えがたい屈辱に苦しんでいた。フランス語クラスの担任コレットにひどい仕打ちを受けていたのだ。 しかしどの場面においても僕の出番はなかった。まずテキストを読む人をコレットが抜擢するのだが、指名される事がほとんどない。たまに当ててもらっても、かなり短いところで突然中断させられる。流暢に読めず時間がかかるからだ。質問があって手を挙げてもほとんど無視。しつこく手を挙げていると「授業の後にして」と素っ気ない返事。ディスカッションの時間は基本的に自由に発言できるのだが、なかなか自分の言いたい事がすらすらと発言できない。ちょっと言いよどんでしまうと、さっさと別の誰かが発言し始め話題を変えてしまう。完全にできる人にあわせた授業の進め方だった。自分の語学力(特に会話力)の無さを嘆きつつ、自信喪失自己嫌悪にはまり込んで行く。 しかしコレットに無視され不当な扱いを受けているのは僕だけではなかった。クラスに4、5人の東洋から来た学生たちがいたが、彼(女)たちもまた、コレットに冷たくあしらわれ悔しい思いをしていた。コレットは明らかに東洋人を嫌っていた。彼女は一人一人の学生の個性を嫌っているのではなく、東洋人独特の『物腰の低さ』にむかついていた。和を尊び謙虚さや遠慮がちな態度を美徳とする東洋的な行動は、いつも『我』が中心にある西洋で生きて来たコレットにはあまりに慇懃で、東洋の学生達のそんな態度に彼女はいつも苛立っていたのだ。 名前は忘れてしまったけれどベトナムから来ていた若い女学生。自分からはほとんど手を挙げず質問されてもなかなか答えられない。ある日コレットは彼女を指名した。もじもじなかなか答えない。やっと彼女が口をひらいて言った言葉は、コレットへの返答ではなく『私はいつもゆっくりで皆さんに迷惑をかけ、ごめんなさい。』という言葉だった。これにコレットは完全にぶち切れて、その女学生に向かって怒鳴った。『どうして東洋人はそんなに丁寧なの?さっさと答えだけを言えばいいのよ。自分の意見をもっと単刀直入に言いなさい。東洋人は丁寧すぎてもう我慢できないわ!』 2月のとある日授業に行くと教室ががらんとしている。いつものメンバーに比べて人がかなり少ない。東洋系と年配組、会話が不得意な連中しか出席していない。コレットは来ないしいつもしゃべりまくるオランダ人やスペイン人、ちゃきちゃきのアメリカ娘も来ない。 僕は生まれて初めて落ちこぼれの気分を味わった。こうやって人は疎外され切り捨てられて行くのだと、初めて知った。悔しくて腹が立ってコレットをなんとかぎゃふんと言わせてやる方法はないものかと考えた。 半年以上経って大学の廊下で、コレットとすれ違った。半年前に比べてかなりやせて首には筋が数本異様に浮き出ている。眼玉がぎょろっと大きく半分飛び出しているみたいだ。のび放題の赤毛をてっぺんでくくって、それが歩く度にゆさゆさ揺れている。まるで赤いとさかの鶏だ。平静を装い『ボンジュール』と僕から声をかけた。そして一言付け加えた。『コッコッコッ.コココ...コケッコッコー!!』 季節がすすむにつれ、加速度を増しながら時間が流れて行った。ジャッキーの家は一軒家で生活は快適だったけれど、やはり他の学生たちとの共同生活(いつも5、6人の学生が各部屋を間借りしていて、混みあうトイレやシャワールーム、騒音で勉強に集中できないなど、ストレスも多かった)に疲れ、一人きりでいる時間が欲しくなっていた。 エクスの町の郊外に一人アパートを借りて住み始めた。HLM(アシュレム)と呼ばれる低所得層向けの公団住宅が立ち並ぶ地域。黒人やイスラム系の移民が多く住み、治安もかなりあぶなっかしい。でも家賃は中心部に比べてずっと安かったし駐車場もただ。8畳ぐらいの居間、3.4畳の寝室(この部屋はすぐに写真の暗室になった)、トイレとバスルーム、一人で住むには十分過ぎるほど広かった。僕はしばし開放感に浸った。 しかし面倒くさい事もいっぱいあった。大家さんはもう70歳を過ぎたおばあさんで、エクスから3、40キロ離れた山間の小さな村に住んでいた。不動産屋を通してその物件を見つけたのだが、家賃は彼女に直接支払うという条件だった。僕は毎回そんな遠くまで行けないと言ったら、彼女の方から毎月バスに乗って町までやって来るという事になった。『エクスのバスセンターに何時に着くから迎えに来て下さい』という手紙が毎月届いて、僕はその日にわざわざ車で迎えに行った。 彼女の足は細くて簡単にポキッと折れそうなほどだったが、エレベーターの無い5階の部屋まで階段をすたすた上って来て、息も切らさず一通りの世間話をして、お金を受け取り次のバスで村に帰って行った。マドモワゼル・ジュヌヴィエーブ。彼女は一度も結婚した事がなかったので、70歳の彼女を僕はマドモワゼルをつけて呼ばなければならなかった。それでなくても呂律が回らないのに、もういつも舌を噛みそうだった。 日本もそうだが、フランスの田舎ではみんな、不便だろうが面倒だろうが自分のやり方を頑なに変えない人達が多く、それだけにのんびりゆっくりとした生活だった。隣人とじっくりつきあう事の大切さをエクスの町で暮らす中で教えられたように、今更ながら感じている。 マドモワゼル・ジュヌヴィエーブのアパートからの眺望は最高だった。 ふと空に目をやると、ツバメ達が旅立ちを前に高い声を上げながら無数の円を描いている。ツバメに気を取られている間に山はもう赤から橙に色を変えている。そして橙から黄色へ。黄色から黄緑へ。窓の下を行く人々の笑い声、自動車のクラクション。今日は何を作って食べようか.....そんな事を考える間にもう山は青い帳に沈み、みるみるうちに藍色にそして紫の闇に溶け込んで行くのだ。本当に雄大で美しかった。雨の日はそれはそれで魅力があった。雨雲の濃いグレイをバックに白さが際立ち、まるでジェリコーが描く白馬のごとく山がいなないているように感じられた。自然のドラマティックな演出は何度見ても飽きる事はなく、僕は「ここに越して来てよかった」と一人ごとを言ってみる。そんな贅沢な生活だった。 しかしその時南仏の夏の暑さを、僕はまだ知らなかった。 著者プロフィール:
野村 ヨシノリ |
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