HOMELINENUPSTUDIOCLOSEUPA/C MagazineFavorite MuseumsLINK購入のご案内
A/C Magazine No.18

シューベルトの庭:新見 隆

 

  20世紀アメリカきっての箱の異色作家、ジョセフ・コーネルが、異常ともいえる食癖を示しながら、甘いもの、お菓子、ジャンク・フードを食べつづけた背景には、拒食と過食を繰りかえす、昨今の日本の病理的少女にもつながるような、シンドロームが潜んでいるような気がする。
  ただそれは、けっしてマイナスの要因だけではない。
  拒絶の身振りが、創造への小道につながることも、また、リアルであることを拒否した、ヴァーチャルへの逃避であるところの「オタク」や「萌え」が、未来への可能性を開くチャンスと交差するのを、誰も否定はできないだろうから。

  まず、コーネルが、その「食における、子供化」を生涯貫いた背景には、むろん、彼のアーティストとしての体質が、同じように、幼児退行的であったことがいえるだろう。
じっさいに、マンハッタンのカフェのウェイトレスに恋したり、有名なバレリーナを追いかけたりして(マリリン・モンローに作品を送りつけたが、変態者と思われて捨てられた)、じゅうぶんに「オタク」あるいは、「ストーカー」でもあったわけだが、架空の少女を作品に登場させて、そのために丹念に資料を集めて彼女のストーリーを構築し、壮大なオマージュ作品をつくるにいたっては、これはもう、ヴァーチャルな世界に引きこもった元祖「萌え」の様相だ。

しかも、ご存知のように、かくも「クリエイティヴ」な萌え、なのである。
その偉大なるクリエイティヴィティーを生んだものこそが、彼の食嗜好に現われた、「激しい拒否」の姿勢に通じる、と感じる。
そこにあるのは、「大人になりたくない」こと、「自然である、自由である」という動物的人間の本性をすべて駄目にしてしまうような、「くだらない因習、制度、規範を押しつける社会」に対する、激しい拒絶でなくて、何であろうか。

宮澤賢治が、生命愛ゆえに、肉食を拒絶してヴェジェタリアンになったように、そして、自然現象を「夢のお菓子」や、「霊の食べもの」に見立てる錬金術的な操作を、詩作のなかで繰り返したように、コーネルもまた、「幼児退行的食」をよりどころとしながら、徹底して、ヴァーチャルで、ファンタジックな、形而上的世界に引きこもった。
むろんまた、マンハッタンという、20世紀屈指のジャンク・シティーの魅惑そのものを、「萌え」の道具立てとしながら、ドラマティックに反転させたと見ることもできる。

  コーネルが示すのは、「リアルであること」への拒否である。
  生身の人間関係は、触れ合えば柔らかいし、エロティックで官能的でも、また精神的な深みを生むものでもあるが、またぶつかり合えば、鮮血すら飛び散りかねない、危険をふくんだもの。
それはいっぽう、あらゆる、リアルな人間コミュニケーションへの拒絶なのだが、そこにはまた、絶望というよりもむしろ、「未だかつてあり得ていない」新たなコミュニケーションへの夢、その再構築への、見果てぬ欲望が隠されているとみるのは、私だけなのだろうか。

  その夢が、虚しく、遠い、とうてい手の届かないものであればあるほど、彼は、幼児的食に向かわざるを得ない。
  孤独な、そして、かくも闇の深遠をふくんだ生涯も、そうそう他には見あたらない。
  いっぽう、あからさまにレズビアンであった魔人、ガートルード・スタインは、アリス・トクラスという、安全な守り神たる主婦に庇護されながら、あれらの、20世紀前衛芸術を睥睨する、アヴァンギャルド詩群をものした。
  『やさしいボタン』。
それは、食卓、室内、そして、あらゆる食べ物の詩句によって成り立つ事物詩、踊る大摩訶不思議、言葉の「ちろりん村」である。
ご承知のように、そこには、いっさいの、神話も、伝説も、英雄も、登場しない。
ここにもまた、徹底した拒絶の姿勢がある。

  あたかも、あらゆる食べ物が、細部をばらばらに、断片化、オブジェ化されて、ごろごろと並んだ有りさま。
果ては、踊りだし、しゃべくり、歌いだすさま。それは、言語のなかでしか、決して有り得ない光景なのだが、事物が突然生命を持って生き始めるような、夢ならぬ、これは正におとぎ話の世界観だ。
  かくもアナーキーな、事物―生命の、非可逆的な反転世界をつくりだしたものこそ、これもまた、彼女スタインじしんが、体質的に持っていた、「成人拒否シンドローム」的審美性そのものと、言えるのではないだろうか。

  最後に、我らが日本的シュルレアリストにして、昭和の「湿った」川端的、谷崎的文学風土を、徹底して拒否した巨人的モダニスト、乾いた、涼しいエキゾチックな風の吹くような、硬質の文体で知られた、稲垣足穂にご登場願おう。
  昭和初期の、近代化大都市化を背景にして登場した二大大衆小説家が、西の谷崎潤一郎、東の川端康成であったのは、もはや言うまでもないだろう。

  そして新たに登場した都市大衆層に受け入れられた彼らの感受性とテーマ系こそが、それまでの私小説にはなかったような、「自分にもありそうな、もしかしたらあったらよさそうな、でもやっぱりとてもなさそうな」、リアルで目くるめく愛と欲望の体験であった、ことも周知だろう。
  そうした、大衆的エロチシズムを毛虫のごとく毛嫌いし、「少年愛の美学」にとどまり、あるいは「天体嗜好症」に、「ロボット人形人間時代」に退行していったのが、神戸出身のモダニストにして、永遠の美少年?イナガキ・タルッフォロギア男爵なのである。
  こうして見ればまた、足穂における拒否の姿勢の含蓄する構図もまた、明快であろう。

  彼の問題系が、未来派的な宇宙、天体嗜好や、映画、映像的モンタージュ、フラッシュ・バック手法にあるいっぽう、そのモダニズムの下部構造をしっかりと土台化するものこそ、たんに日本史裏面的な「男色」の薀蓄解説ではない、「新しい性」、「第三の性」、男権主義的でもなく、また肉体的・触覚的エロティシズムでもない、中性的で、形而上的なる、「新しい性」の創出への、見果てぬ夢にあったのは、これもまた明白。
  かくして、足穂もまた、少年、幼児の世界へ退行せざるを得ない。

  これを、かつて種村季弘は、「機械学的退行」と呼んだし、足穂的な嗜好の一部を、ノヴァーリスなどドイツ・ロマン派や、19世紀のパノラマ都市を徘徊する特権的「見者たち」ボードレールや、ベンヤミンと絡めながら、「模型の思想」といみじくも名づけた。
  少年、月がはたまた、それぞれにヴァーチャルで、来世的動きと生命を付与された、摩訶不思議な仮面劇を演じる「チョコレット」を書かざるを得なかったのは、その食べものじたいが、足穂の模型世界にかけられた呪文そのものであることの、絵解きに他ならない。
  ならば、こうした幼児的退行は、悲劇なのだろうか。

  結論から言えば、私はそうは思わない。
  ここにもまた、クリエイティヴであることの、アート&フード的深層が潜んでいるように思われるからだ。
  それはまた、一見退行現象とは何の関係のなく、食による生活芸術の総合化を、傲岸不遜、唯我独尊的に実行したあの孤独なる自然崇拝者魯山人が、最後に、「山鳥のように生きたい」と言ったのが、そのまま、帰りえぬ、もう絶対には戻りえぬ、見果てぬ原郷への回帰、その叫びだったのを想い出させる。
  それは、ユートピアとしか言いようのないものなのだろうか。

  食とは、アートとは、人間におけるこの二つの根源的欲求の根にあるのは、自らの生まれ来たった原郷、もう絶対に戻りえない、今は無い古里への、悲しくも絶望的な、そして深い、回帰の叫びなのである。
  絶望的であればあるほど、未来への扉は必ずや開かれると信じたいものだが、それはもう、祈り以外のもではないだろう。

(宮沢賢治については、好著、鶴田静『ベジタリアン宮沢賢治』(晶文社)から多くを学んでその指摘を借りた。谷崎、川端の登場した社会背景については、たしか柄谷行人『近代日本文学の起源』の指摘を記憶で借りた部分があるだろう。足穂は、ほとんどが、種村季弘の焼き直しで、魯山人の「山鳥云々」は、どっかのTVのドキュメンタリーでみたのを借りたので、原典に当たっては無論無い。かくの如く、畢竟私は、引用、借用の鬼である。)


著者プロフィール: 新見 隆(にいみ りゅう)

 

Page Top