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「来るべき音楽」についてのメモVol.2

 

エズは雨だった

“IZUMIさん、パリに お茶飲みに行きません?”
9月、突然かかってきた電話。年に一度くらいしか会わない旧友Aからだ。
“うーん、パリね・・・ここ一、二年行ってないな”
“安いエアー確保しておきますから・・・”
“でも、雨降ってて寒いのはいやだよ(北海道生まれだからネ)それに今住んでるところからは朝早く成田には行けないよ・・・”(午前中の早いK Airは無理)
まあ、パリも新しく出来たケ・ブランリ美術館などちょっと行ってみたいところはあるが、無理して行くような気分ではなかった。
いろいろ気になることもあるし。
“タイミング(条件)が良かったらね・・・”と、しておいた。

Aはいろいろ当たったようだが、その後お互いの仕事の都合もあり、話は立ち消え、少し忘れかけていた。
A君、私より若く70年代からパリに15年ほど、その後イタリアにも3年住んでいた男だ。
10月に入り、またぞろAから電話。
“IZUMIさん、いい出ものが・・・ニース行きが5万切って・・・2枚あるそうですよ。しかも欧州便だから朝は大丈夫。 IZUMIさん、昔 エズに行きたいって言ってましたよね。”ときた。
彼の用事はパリなのでニースからTGV(ユーレイルパス)で上がればいい。
Aは長くパリに居たこともあって、閉塞感あるこの不思議な国 日本に一年いると煮詰まってしまうのだと、写真の仕事にも絡むが 息継ぎもあっての渡欧だ。

私も、これまで何度も渡欧しているものの南仏はタイミングが悪く行ったことがなかった。
その昔(仏革命200年祭の企画でだったか)パリで木立玲子さんと“欧州人にとって今Mediterranee「地中海」という大テーマはあるよね、ポジティヴな意味で・・・”って話していた。フェルナン・ブローデルではないが「地中海」と言うだけで多くのイメージが駆け巡る・・・。かつて対岸のチュニジアを畠山直哉君たちと車で2000km旅したことを思い出す。M.フーコーが「知の考古学」を書いたチュニスと、プジョー307を駆って砂漠へ「サハラでお茶を!」だ・・・。
それにしても、A君 変なことを覚えているな・・・エズ・・・(エズ村はニースの隣)。
そう、なぜEZEエズなのか。
それは(このサイトの原稿でもたびたび引き合いに出している)モーリス・ブランショ晩年の数少ない書き物のひとつ『他処から来た声』の冒頭から喚起させられるのだ が・・・。

かつてエズに滞在していたとき、わたしがよく過ごしたあの小さな部屋(一方はコルシカまで開け、もう一方はフェラ岬の向こうまで届く二重の展望によって広々としていた部屋)の壁には、「セーヌの見知らぬ女」と呼ばれる女性の肖像が、掛けられていた(それはまだそこにある)。それは若い女で、目を閉じてはいるが、とても奔放で、とても豊かな(しかし覆い隠された)笑みによって生気づけられているので、その女が溺れ死んだのは至上の幸福の一瞬だと信じることが出来るほどだった。自分の作品からあんなにも隔たっていたにもかかわらず、ジャコメッティはその肖像に誘惑されて、ひとりの若い女、つまりあらためてこのような死の祝福という受難を企てるような若い女を探し求めたほどだった。・・・

ブランショは、1949年から57年までの9年間を南フランスのEZEエズ村に居住する。小説や文芸批評など多くの著作が世に送り出された時期だ。主著『文学空間』や『来るべき書物』の大部分が書かれたところでもある。その後58年パリへ戻り・・・<68年5月革命> 学生‐作家行動委員会に全力で身を投じたのは周知のとおり・・・。

そうか、“EZEエズに寄れるなら行くか”
出発することは決めたが、やっておかねばいけないことや、気になることがたくさんあり。その気になることの一つが、すぐ後 的中してしまった。
闘病していた義弟が急逝したのだ。
さらに続けてもうひとり従兄弟が・・・いずれもまだ若い・・・。
足早に近づく冬・・・二つの葬儀、北の火葬場・・・そこは荒涼とした石狩に近い札幌郊外・・・。
帰京後 数日、気持ちが未整理のまま機上の人に。

旅の全面報告が今回の原稿の趣旨ではない。どだい2週間を記載することなど不可能だ。
ただEZEエズが気になっていたのは確かで・・・ブランショの『他処から来た声』は作家ルイ=ルネ・デ・フォレの詩について書かれたものなのだが、後半に進むにつれ・・・あきらかに「音楽」を奏でながら、いや「聞こえない無」を聞き取りながら書き進んでいく・・・。

声、響き、音楽。こうした語によって<コントルタン>(不時の出来事=シンコペーション)の答えなき問いが開かれるだろうか。・・・・・・アナクルシス・・・・・・。

アナクルシス――アウフタクト。それは音楽のはじまる一瞬手前の 叫びのような沈黙 のことなのだが・・・ブランショがEZEに想いをはせながら最後は、聞こえない音をたぐりよせるように音楽を演奏していた。いやブランショなら“まず歌わないことによってのみ歌うのだ”と。
そう、まぎれもない、それは私を駆り立てている「来るべき音楽」への遠い雷鳴だ。

機体は厳寒のロシア上空を11時間、ゆっくりヒースローへ降りていく。トランジットという無国籍状態。数時間後、少し小ぶりのBAは南へ向う。ようやく日本人がいなくなった。
細かなスケジュールを決めない旅。そのインプロヴィゼーションこそ旅の醍醐味だ。もちろん、ドラマも多い。今回も乗っていたTGVが急に減速して止まり・・・マルセイユがストに入ったとアナウンス、予定外で方向を変え アヴィニヨンの在来線へ。おい おい おい どうしてくれるんだ・・・。(心の中では、マルセイユのSNCF労組ガンバレ! アヴィニヨンにも寄ることが出来た。)

5泊したパリは まさに晩秋。落ち葉が舞う「枯葉」の時期に間に合ったのです。
観光客も少なく、パリ市民がその日常をかい間見せる頃。
イタリア広場を少し下ったプチホテル「ヴェルレーヌ」(あのランボー相手のヴェルレーヌだ)。通りには詩人ヴェルレーヌのプレートが・・・。“待ってたのよー”と気のいいマダムはパスポートも見ず・・・☆二つだが快適、安いしお勧め。

翌日友人と別行動に入り、ピリッとした空気のもと、落葉の街路を歩き出した。 
何と! ここで頭をよぎったのが・・・
♪ 恋人よーー そばにいてーー 凍える私のそばーにいてよーー ♪ の声ではありませんか。イヴ・モンタン/ジャック・プレヴェールの「枯葉」でも、マイルス・デイヴィスの「枯葉」でもなく。 五輪真弓の・・・♪ 枯葉散る夕暮れはーー で始まる「恋人よ」だ。
(モンタンの「枯葉」は、高校の時に買ったドーナツ盤をいまだに持っている) 
まったく想像だにしないこと。笑ってしまうが、作り話してもしょうがない。これが事実だ。私が手術した年だから覚えている。1980年、NHKの紅白か何かの音が記憶の隅に残っていて浮上したのだろう。
音の記憶の浮上・・・それは謎だ。
苦笑しながら、今年開館した話題の「ケ・ブランリ美術館」へ。
エッフェル塔近くの美術館に到着するも、土曜日だったこともあり入館まで1時間待ちの長蛇列。驚くなかれ、あのフランス人たちが並んでいる。
メインの展示物やジャン・ヌーベルが設計した建物の出来などは、すでに多くのレポートもあり、数々のサイトでも知ることができるので省略。(公式サイト↓)
http://www.quaibranly.fr/

ここでは「来るべき音楽」の読者(そんな方がいるとして・・・)に報告しておくべきことがある。このケ・ブランリには世界中(西欧近代以前)の民族楽器が集められていると聞いていた。どのように見せているのか、音も聴けるのか、など 大いに興味があった。
確かに入り口近くには何層にも分けて、膨大な数の笛や太鼓が収蔵されており、その数だけでも恐ろしい量だ。しかし それは まだ眠っている状態で、照明もしっかり当たっているわけではなく、どのように見せるか思案中という感じで置かれている。
少しがっかり。確かに 音が出て楽器だからね。難しいね、見せ方は。小ぶりだが日本の釣鐘まであった。
“他者に視線を向ける美術館”をお題目に、西洋中心主義からの脱皮と豪語するシラク大統領 肝いりの美術館。今後どう展開していくか注目しておきたい。

今回のParis、亡くなった木立玲子さんや共通の友人T君の追悼(供養)もある。そもそも出張ではないという気楽さも加わり、普段は行かない裏街道を巡った。バス移動の面白さも味わい、62番、60番でアラブ・アフリカ人街へ。さらにモンマルトルを横から眺める丘があることも知った。学生時代のようによく歩き、カフェではノワゼット シルヴプレを覚え。美味しい(安い!)バケットを求め。夜はA君が買い込むボルドーと山羊のチーズ・・・。
あちこちで貼られていたメデリック・コリニョンのLiveを告げるポスター(ドン・チェリーの魂を受け継いでいるだろうコリニョン君は今やスターなのだ)。コレット・マニーのLPが最上段の壁に並ぶサン・ミッシェルのレコード屋Silly Melody・・・。ここはParis・・・。

旅も後半。南仏へ戻る―――
途中、数日滞在した街 エクス・アン・プロヴァンス! セザンヌのサント・ヴィクトワール山! それらの魅惑については 何とお伝えすればよいのか・・・一行では無理だ。黄昏時、小さな広場、どこからともなく聴こえてくるクラリネットの音、呼応して打ち鳴らされるzarb・・・インプロする二人はデュニ・コランとパブロ・クエコか、遠くマグレブまで響き合う 中央に回収されないサウンドだ。 さらに!詩的イメージを喚起させる夢魔的な港町マルセイユ!(あぁ、湾沿いの明るいレストランテラスで、ジュッとレモンをかけたイワシの美味かったこと!)

そうして、ようやく、今回のささやかな目的地の一つEZEエズへ。
その日も好天。地中海がキラキラしている。 “ちょっとイタリアまで足伸ばして、向こうでランチしてからエズに戻りません?”というAの提案。 フランスレイルパス セーバーは同行者の同一行動が義務付けられている。 ニースを出た鈍行は各駅に停まりながら40分、車掌のチェックもなく国境を通過、ヴァンテミリアに到着。 ことばが急にボンジョールノ、グラッツェ、プレーゴになる・・・ここは陽気なイタリアだ。
街をひとまわり・・・カフェの味が違う。市場にもわけ入り(知らない街は市場へ行くのが常套だ)、私は一人、もう一度地中海を触れに行った。ここは陸地から海面への段差がない。海を見下ろす感じがしないのだ。

見つかったか。 何が?
太陽に溶ける海。

後は美味しくランチ(本場のパスタ!)をいただき いよいよエズへ。
列車は、こんどは地中海を左手に見ながらフランスへ戻る。
戻りの車中、私は 持参していた『他処から来た声』のコピーをもう一度必死に読み始めた。

・・・その<終わり>では、時間にも磨滅にも浸されることない 他処からやって来た声(おそらくサミエル・ウッドの、あるいは名を持たぬものの声)にたいして称賛が捧げられるのだ。その声は、たとえ<夢と同じように幻影そのもの>であるとしても<それ自身のうちに、意味が失われた後でさえも続くなにか>を保持している。 だが、なぜそうなのか、それは<その響き(強調しよう)が、なお遠くで鳴り響いているからだ/近づいてくるのか、それとも去っていくのか わからない雷雨のように>・・・

メントン~モナコと各駅を通過するころ、それまでの好天がにわかに怪しくなってきた。
あれほど輝いていた地中海も急に暗転し・・・。
降りる客も駅員もいない 小さな駅EZEエズに到着した時は雨だった。
目の前は、急な崖が立ちふさがり、そこにへばりつくように住居は点在している。
このどこかにブランショは住んでいたのだ。
少し歩き出すが、雨は激しくなり、我々の行く手を阻んだ。
ここまで来て・・・と。
ニーチェの小道、鷲の巣村へも上がれず、雨具ナシの我々は雨に打たれ、崖を見上げたまま呆然と立ち尽くすしかなかった。
それは、まさに 安易な引用を拒むかのように・・・。
東洋の山猿の前に、西欧の総体が立ち塞がったのだ。  
雨は止む様子もなく、後ずさりするように 引き上げることにした。 これが返礼なのだろう。 門前払い・・・。 修行がたりないのだ。
戻りの車内 重い気持ちのまま、私が再びこの地を訪れることがあるだろうか・・・と。

最後は『他処から来た声』のエピグラフで終わりたい―――

「どうか彼のうちの子供の声がけっして黙することのないように、どうかその声が、はじける笑い、塩からい涙、野生のまったき力を授ける空からの贈り物のように枯れ果てた言葉に降ってくるように」

ルイ=ルネ・デ・フォレ『オスティナート』より

’06.Dec.26 H.IZUMI

 

P.S.引用した『他処から来た声』は小林康夫・水野雅司 氏訳による。
「リテレール6号」メタローグ1993年秋号
尚、『来るべき書物』粟津則雄訳は、今秋20年ぶりに筑摩書房から再々刊された。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480835987/


著者プロフィール: 泉 秀樹(いずみ ひでき)

 

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