| '99年に日本に帰国した後も何度か南フランスを訪ねる機会があった。
その度に僕はモンサンヴィクトワール山に会いに行く。山が僕を呼んでいる。
懐かしい友のように、厳しくも優しい父母の様でもある。会う前から僕はわくわくドキドキする。
マルセイユで3、4両しかない小さなローカル列車に乗り換えてエクサンプロヴァンスに向かう。
マルセイユ郊外の貧民街を通り抜け15分もすれば、草も木もほとんど生えない殺伐とした荒野が広がりはじめる。
古ぼけた列車がガタンゴトンと音を立てて走りつづける。
そして、そして...... 突如として、進行方向右前方、荒野の向こうにあのモンサンヴィクトワール山が現れる。
三角形の巨大な積み木をぽつんと置いたように、たったひとつ山がそこにある。僕はもう目を離せない。
何年経ってもずっとこの山は、あたりを制するように白く輝きそびえ続けているのだ。
ありがたい気持ちでしみじみと山を見る。僕は、やあ、なんてちょっと気障な挨拶をしたあと、人目を忍んで涙ぐんでしまう。あの頃のあの僕を見守ってくれた恩人に、久しぶりに会えたんだから。
彼を見れば次から次へと止めどなく、あの頃の思い出が蘇ってくる。
'92年の秋、僕は南仏エクサンプロヴァンスで暮らし始めた。
フランス語の習得のためにも一人暮らしよりはホームステイの方が効果ありと、学生会館で紹介された下宿に下見もせずに転がり込んだ。本当はいろんな物件を下見をしてから決めたかったけれど、何せネイティヴの早口なフランス語なんて全く理解できなかった。
学生会館のマダムに矢継ぎ早に質問されて、知ったかぶりで『ウイ、マダム』なんて言ってしまったものだから、自分の希望とは関係なく物件を決められ、「ボン・ションス(グッド・ラックの意味)!」と背中をたたかれ扉を閉められた。手渡された紙切れには、大家の名前と住所と電話番号が書かれてあった。
勇気を出して電話をかけ、やっとこさアポを取った。初めてその下宿屋を訪ねた日を僕は今も良く覚えている。
中世の町並みが残るすてきな通りに住んで....なんて想像していたのに、その下宿屋はずいぶんと郊外にあった。本当にこんなところにあるのかと、どんどん歩く。
細いへんてこりんな道の奥、なだらかに傾斜する丘の斜面に建てられた一軒家。ちょっといいかも、なんて気分を取り直し、朝9時、さびた鉄格子の門を開けて、大きな楡の木と手入れの行き届いた芝生の庭を通って玄関にいき、ソネ(呼び鈴)を鳴らした。
朝のさわやかな空気と透明な日差しが庭一面に降り注いでいる。しばらくすると、金髪のやや大柄な中年女性がドアを開け、僕を招き入れた。
その女性こそ、この下宿屋の女将ジャッキーだった。
顔はしわくちゃでほお骨が異様に出っ張り、白人の割に肌は浅黒く黒いつけまつげが重たそうに時々上下に動く。その顔貌は美しい金髪と異様なコントラストをなしていた。
たどたどしいフランス語で自己紹介する僕をもの珍しげにタバコをくわえながら、半分見下すような目でみつめるジャッキー。
年齢不詳で、ガラガラ声の、タバコのヤニで歯が真っ黒のジャッキー。まるで、ジャンヌ・モローを泥水で洗濯してそのまま乾かしたみたいなジャッキー。
夫を何年か前に亡くし、今は10歳以上も離れた老人モーリスが恋人。
掃除はマメにするけれど、料理らしい料理をした事は一度もなかったジャッキー。
毎週シーツを交換してくれるという約束は一度も守られた事がありませんでしたね。
いつかあなたは僕に届いた大切な郵便物を捨ててしまいましたね!
いつかあなたは、他の下宿人に僕を全くフランス語が上達しないアホな東洋人と言ったそうですね!
ジャッキー、あなたは意地悪でした。
こうしてジャッキーの家に腰を落ち着け、僕は当初掲げた「フランスでいっぱしの写真家になってやる!計画」を実行し始めた。
10月半ば、大学の授業が始まった。日本で受けた留学試験にはなんとかパスしていたけれど、造形芸術科の一年生として、高校を卒業したばかりの若いフランス人たちと一緒に大学生活を始めなければならなかった。
そしてもう二つの部署にも籍を置いた。一つはアルル国立写真専門学校受験準備コース、そしてもう一つが、外国人学生のためのフランス語習得コース。
本当に毎日朝から夕方まで授業が詰まっていて、デジュネ(ランチ)さえゆっくり食べた記憶がない。
着の身着のまま、いつも同じシャツとジーンズ。ひげも伸び放題。乾いた気候ではとても痛くてはめていられないコンタクトレンズはあきらめ、でっかいトンボ眼鏡で人の二倍の速さですたすた歩く変な東洋人。
そうでもしなきゃ、3つの部署の授業を確実にはまわれないんだ、もん!
下宿に帰ったらすぐにその日の復習とフランス語コースの宿題に取りかかる。
帰る途中スーパーに寄って夕食の食材を買い、ジャッキーが丹念に磨いた広いキッチンで自炊する。
日本から持って来た『独身男の簡単料理』とかなんとかそんな本を見ながら、おかずをつくった。ご飯は鍋で炊いた。見よう見まねでつくったまずいはずのそんな料理でも、不思議と美味しかった。南仏の透明な水と空気が一緒に僕の体にしみ込んで、心も体もなんだか充実感で満ち満ちていた。ジャッキーは傍らで、ご飯が焦げ付いた鍋を恨めしそうに見ていたけれど。
造形芸術科の授業では完全に落ちこぼれた。やはり僕のフランス語学力が決定的にお粗末だった。
美術史の授業はまだしも、記号論や思想史となるとさっぱりわからない。日本から岩波新書などその類いの本を送ってもらって読んでおき、何となくわかった風を装った。でも学期末の筆記試験となるとお手上げ状態。単位なんて取れるはずもなかった。
その点、アルル写真学校準備コースは楽しかった。毎週テーマを与えられ、それぞれ学生が写真を持ち寄り合評したり、日曜暗室の中でサンドイッチを分け合ったり、撮影旅行と称して仲良くなった学生たちと近場の小さな村に泊まりがけで行った。
その頃僕は現地で中古車を手に入れた事もあって、貧乏な若い学生たちはどこに行くにも僕に声をかけてくれた。乗せてもらえるのを半分目的に、たとえアジアの辺境から来た会話もほとんどできない変なおっさんでも人気があったのだ、と今も信じている。
フランス語コースの方でも、たくさん友達ができた。語学力で10クラスほどに振り分けられる。
僕はほとんど会話はできないのに、変に文法がわかっていたり作文ができたために中級の中ぐらいのクラスに入れられた。でもまわりはみんな、僕の語学力とさほどかわらないしどろもどろの外国人。フランス人は当然ながら一人もいない。みんなフランス人へのコンプレックスの反作用で結束し、傷をなめ合う犬の群れの様だったのかもしれない。
学年末に行われるDALF, DELFという語学試験合格を目指す。これに合格すれば、学部の正式な学生として入学が認められるのだ。あるいは自国に戻った時進学の上で有利なのだ。
エクサンプロヴァンスには、特に北欧やドイツからの学生が多く集まって来ていた。日本人や中国人も少なからずいた、こんな田舎町にも関わらず、すごくインターナショナルだった。
年齢差も相当なものだった。高校を出たばかりでどう見ても少女にしか見えない神戸から来たマミちゃんから、退職後フランスの田舎で余生を過ごすためイギリスから来た60才のマイケルまで。
しかし、教えるのははもちろんフランス人。そして、あー、ここに来て思い出してしまった。なんと不運にも僕たちのクラスの先生は、最悪のコレットだった。あのジャッキーも足元には及ばない意地悪女、コレット。思い出しただけでも、悔しい思いが吹き出してくる。
コレットについては、次回Vol.3で、あらためてじっくりお話したいと思います。
著者プロフィール:
野村 ヨシノリ
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