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「来るべき音楽」についてのメモVol.2

 

僕は当時仕事も親もほっぽりだしてフランスに行き、日本を長いこと留守にしていた。
いったいなぜ突然にフランスなんぞに7年も行っていたのだろうと、時々思い直すことがある。
すぐに「ただの現実逃避だったのさ」と、内なる声が答えを返してくる。

そう、あの頃の僕といえば、ただ自分のいる環境がどうにも我慢のできるものではなく、それでもその環境に過剰適応してしまう自分がいて、一見何でもそつなくこなしつつも、外と中の自分が完全にずれてしまいその齟齬がどうしようもないところまで来ていたのだと思う。発狂寸前だった。ちょっと大袈裟か....。
そして失恋(?)というきっかけもあって、車輪ががたんという音をたてて大きく逸脱してしまったのだ。
僕には『写真』という大きな夢があると自分にいい聞かせつつも、それが実は現実逃避に過ぎないことは、心のどこかで判っていたような気もする。

兎に角、僕は外れた道を、たとえ岩がむき出しでがたがたでも、雨が降ってぐちゃぐちゃにぬかるんでいても、その道をいける所まで行ってみようという気に なっていた。自暴自棄というか、がむしゃらというか、若気の至りとはこういうことなんだろう、きっと。
日本を脱出して行き着く先はどこでも良かったわけではないが、写真をしたいからフランスに行くというのはかなりのこじ付けだったのかもしれない。
しかし一見まともな理由を付けないことには親や親戚は納得しなかった。仕事をやめるにあたっては留学という理由を使うしか、自己弁護は通らないと思った。フランスの一般大学で1、2年勉強し、アルルにある国立写真専門学校に入学するつもりだ。駄目だったらすぐ帰ってくるとか何とかいって.......。(もちろんこれは嘘ではなく真剣にそう思っていた。)

とにかくフランス語など全くできないのにフランスの大学留学試験を受けて、フランス語が堪能な友人に頼んで訳してもらった『なぜフランスで写真を学びた いか』の仏文を完璧に暗記して、全く関係ない解答欄にギューギューに押しつめて書き込んだ。
そのかい(?)あって見事留学が認められ(もちろん自費だが)、南仏はエクサンプロヴァンスという町の大学に入り込むこととなった。第1希望はパリにしていたが、恥ずかしいほど低い成績のおっさん学生をまさか競争率の高い首都の大学が受け入れてくれるはずもなかった。第2希望とは言え今から考えてみると、マルセイユ近くのエクス大学が僕のような者の留学をよくぞ認めてくれたと、その懐の深さに感動せざるを得ない。僕にとっても、最初からパリに行くよりも地方の町から新しい生活をはじめることができたのは、フランスを知る上でも自分自身を見つめる上でもよかったのかもしれない。

美しい町だとは聞かされていたが、エクサンプロヴァンスは本当にすばらしいところだった。その頃日本人の若い女性の間では南仏がブームになっていた(ピーター・メイルの『プロヴァンスの12か月』が火付け役となった)が、僕は全くそれとは知らず中世の町並みが残るおもちゃのようなかわいい町と周囲にひろ がるオリーウ゛とぶどう畑、そして今もなお僕に憧憬の念を抱かせてやまないあのモンサンウ゛ィクトワール山(あのセザンヌが幾度と描いた山としてあまり に有名)がどこからでも見ることのできる魅力的な土地に、住みはじめることになる。
心身症寸前だった僕はそこでみるみる健康を取り戻していった。
1992年の初秋9月20日と日記にはしるされている。僕は32歳だった。
ただしその時はこの町が高慢ちきな人々が住む全く鼻持ちならない町だったとは知る由もなかったのだが.....。
この続きは次回に。


■展覧会のお知らせ

Francoise Nunez(フランソワーズニュネズ)写真展ー砂と水のベール

6月18日(日)まで Gallery OUT of PLACE
http://www.outofplace.jp/



著者プロフィール:野村ヨシノリ

Gallery OUT of PLACEディレクター

1959年奈良県山添村で生まれる。
イノシシ年生まれ、蠍座、血液型B型 というとほとんどの人が引く。

1987-92 大阪、奈良で内科の医者として働いていたが、全く医者としてのアイデンティティをもつことができず、
92年秋突如フランスで写真を学ぶことを決意し渡仏。(もちろんその裏では準備を始めていたのだが。)

92ー94 南仏エクサンプロヴァンスで仏語を学びながら写真とアートを学ぶ。
94夏 パリに引っ越す。バスチーユ近くの屋根裏アパートで生活をはじめる。
パリではただひたすら写真を撮ってはプリントし写真ギャラリーにプレゼンするという生活を送った。
ほとんど陽の目を見ず。お金を使い果たし、精神的にも疲労感が見えつつあったため、99年秋帰国。

99年冬から医者の再研修をし、’03年夏まで故郷の奈良の田舎で内科医として働く。
その間に母が癌を発病、’03年5月他界。母をモチーフに作品を作り発表もしていたが、母の死後作品制作にはとんと興味を失う。
帰国後医者をしながら興味を持って見ていたのは、アートマネージメントという分野だった。
どうしたらもっと写真や現代アートの持つ魅力を一般大衆(特に日本の)に伝えられるか、同時にビジネスとして成り立たせられるか。その分野を開拓してみたいという気持ちがむくむくと強くなり、ギャラリーを開設することを決意。

2002年秋
奈良の路地奥に古い長屋が売りに出されているのを知り見にいくと、アートスペースとしてのインスピレーションが怒濤の如く湧き出て、買うことを即決。
ただし自分の中に運営のノウハウが全くないことを自覚し、パリの写真専門ギャラリーに一年の研修を申し込む。
受け入れが決まり、再度医者をやめ(今後一切医者に戻ることはないだろう。)2003年9月から一年間ギャラリー業務を見学させてもらう。その期間に多くのアーティストやジャーナリストと知り合う。

2004年秋 帰国。
早速古長屋の改装に取りかかる。コンセプトとギャラリー名は「OUTofPLACE」(場違い)。
既成概念と偏見を取っ払い、未だどこにも属さない異種異文化の交配をリアルタイムに臨見(注:僕の造語)したい。また、現代思想家エドワード・サイードの自伝のタイトル「OUT of PLACE」から拝借した。その本の副題「どこか遠い場所の記憶」に、痺れたのだった。

2005年3月17日、Gallery OUT of PLACE開廊。
この一年はヨーロッパで知り合った作家を奈良で紹介するという方向で展覧会を企画開催してきたが、今後は日本で知り合った作家たちを日本はもとより世界に向けて紹介していきたい。作家がここを通過することでさらに進化を遂げ、観客がここを往復するうちに世界観が変化し、僕自身がここを操縦することである種の至福感をあじわえるトポスでありたいと願っている。

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