
七月のあたま、梅雨の東京を出て、久しぶりの札幌を訪れた。
二〇世紀モダン・アートを代表する彫刻家、イサム・ノグチの遺作、モエレ沼公園(写真上)が、死後十七年たって、北の地に完成した。
それは、単に雄大だとか、スケールが大きいとかいうのとはちがう、ある種の、深い感慨を与えてくれた。この仕事を、ランドスケープなどといったり評したりするのは、あまりに浅薄にすぎる。そう思わせるほどに、稀有な体験だった。
すべてが、ノグチの肉体のなかで、新しい、まったく未踏の造形や、風景に変貌させられているとはいえ、そこに私が見たものは、マヤの神殿であり、マチュピチュであり、クスコであり、やがては、サン・ピエトロ寺院広場、ジャイプール、アンコールワット、そしてさらには、仁徳陵であるといった、地球儀そのものを旅するような、世界遺産群の文化的記憶だったのである。
ノグチの畏友だった、インドの建築家チャールズ・コレアがいったように、あらゆる意味で、ノグチは世界文化の造形者であり、それらを橋渡しする調停者だった。
透明で晴朗な風土をもった北の地に出現した、世紀の傑作は、あるいは、先住民族、アイヌに捧げられたものと、勝手に解釈してもさしつかえなかろう。
サッポロとは、アイヌ語で、平たくて、大きな土地、という意味だそうだ。
激動の二〇世紀を生き抜き、日米混血であったために、孤独で数奇な生涯を送ったノグチだが、その仕事もまた、生前、じゅうぶんに理解されていたとは、いいがたい。
今日、岐阜の提灯を新たにデザインしたノグチの照明器具、あかりは、世界ブランドになったし、若手のデザイナーや建築家など、そのもっとも影響力の強い先達としてノグチを崇める人は、ひきもきらない。生誕百年だった去年から、ここ数年、顕彰事業は世界じゅうで続いて、その評価はうなぎのぼりといっていい。
ノグチは、ニューヨークで肖像彫刻家、やがては、ニューヨーク派モダン・アートの雄として名を成して、戦後、父の祖国日本に凱旋する。
その旅を発心させたのは、じつは三〇年代から続いていた、ノグチのなかのひとつの決意だった。それはある意味では、彫刻、あるいはモダン・アート的彫刻への決別宣言でもあるのだが、美術館や個人の邸宅で、見て鑑賞されるものではない、まったく新しい、万人のための、社会彫刻のようなものを、この時期ノグチは、構想する。
それがやがて、ノグチをしてユーラシアを二年かかって歩きまわる、研究調査の旅にみちびく。
モエレ沼に完成したのは、ノグチの悲願といってもいいものだ。
老若男女、すべての人間が、遊んだり、歩いたり、滑ったりしながら、風のなかで、陽を浴びながら、地球といったいになって、五感で感じる、地球彫刻であった。
この夏、私はまた、ノグチが原爆被爆者のための慰霊碑を設計した、広島を訪れた。
じっさいに実現したのは、平和公園をはさむ、二つの橋の欄干である。
東に、「生きる」、そして陽の沈む西に、「行く」。
古代人が、太陽をつかみとったように、優雅に、アルカイックに反りかえる、「生きる」。
エジプトか、アジアか、冥府への葬送の船のへさきのように、連なる、「行く」。
あの悲しみの町にも、六〇回目の夏が訪れた。
ノグチは一所不在、また旅する人だった。
ノグチの歩んだ、無辺の荒野のような孤独を思った。
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