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Vol.7 陶芸家 宮永東山 京都におけるものづくり ―京焼きの歴史と宮永家―

1.祖父について

 

初代 宮永東山陶芸家としての祖父の経歴は、非常に特殊であった。祖父は、明治維新の廃藩置県にともない加賀の大聖寺藩士だった曽祖父に連れられて金沢から上京した。東京で東京独逸全修学校、入学、卒業後改めて東京仏語学校で語学とフランスの文化の歴史を学んだ、卒業後は岡倉天心の助手として、欧米の美術施設の調査にあたった。その才をみとめられ農商務省に奉職した後、1899年にフランスのパリで開催された万国博覧会の事務局に勤務することになり、かねてからの念願のパリに渡り欧州のあたらしい文化の吸収に勤めた。

そこで文部省から西洋画研究のため留学を命ぜられパリに滞在していた浅井忠に出会ったことが人生の契機となり、芸術の道を志すようになった。

当時欧州では新しい美術様式(アール・ヌーヴォー)が興り繁栄を極めていた、祖父は浅井忠の進めもあり、パリ万国博覧会視察のため滞欧していた京都の陶工錦光山宗兵衛から帰国後、京都にきて陶磁器に手を染めないかとの誘いを受け焼き物の世界にはいります。パリではそのほか、三越の番頭であった日比翁介とも出会う。祖父は京都で陶芸を始めてからも日比翁介と交友関係にあり、祖父自身の作品を持ち込み、そこで販売することもあったという。三越が呉服以外の商品を扱ったのは、それが初めてであったというエピソードが残っている。

帰国後、祖父は錦光山の招きに応じ京都に移住し、錦光山の娘と結婚して、陶芸の道をあゆみ始める。錦光山を名乗らなかったのは、後に妻とは死別し、その弟が錦光山の家を継いだという経緯による。以来、筆者の父と筆者、三代続いて東山と号して陶芸を生業としている。本稿では陶芸について、京都の歴史と宮永家のあゆみを参照し、論じることとしたい。

2.京都という土地

 

焼き物に携わるようになってから、京都という土地に特殊性を感じるようになった。その事由は、以下の3点に集約されるものである。 
第一に、地理的環境があげられる。山脈の奥深く連なる方向が、東西南北の「北」にあたる。よって、どこにいても、そこの景色から、自らの位置をおおまかに認識することができる。また、縦横にはっきりと区切られた道から、目的の場所もわかりやすい。また、そのような風土は何千年と続いてきた。

第二に、今の京都は桃山期以来の町並みですが、平安期桓武天皇が開いて以来の王城の地であるというその歴史的な背景は動かしがたいものがあり、いま生活しているこの場所は往時は何々であつたとはなされることが常である。

第三として、平安時代以来の京都の人々の生き方があげられる。人々は文化を生活の糧とし、生活の中でそれを育み、身に付けることをする。例えば、歌や芸能を、生活文化向上のためのものと考えて実践する。そのような背景からか、京都の人々は功利的な資質をもつと他の地域からは批判されることが多い。

以上の3点に見られる「京都らしさ」は、いわゆる伝統や継承というものとは一線を画し、暮らしの中で身に染み付いていくものである。そういった意味で、京都には「地域性」というもの以上の特色があるように思われてならない。

3.京都における焼き物の歴史

 

作家の生きている時代が、作風に与える影響は大きい。東山三代においても、それぞれの作風の違いは、各人が生きた時代性によるものが大きいのではないかと思う。

例えば、既述の京都という土地柄を縦軸とする。また、作家の生きる時代性を横軸として捉える。そして、その縦横の中に「自分」を位置づけてものづくりをする。東山三代は、そのような制作にまつわる「自己位置づけの意図」を、それぞれ持って作陶にいそしんだのではないかと思う。制作の場所と時代は、ものづくりの上で最も重視される要素であるといえる。

自身の体験から言うと、京都での暮らしは、ものの自然な形態の意匠を身に付けることに役立った。それは、前述した「北山や加茂川をみれば、自らの位置や方角がおおまかに理解できる」土地柄に起因する資質ではないかと考える。

また、京都には前述したような「生活に役に立たない文化はあり得ない」という価値観がある。その意識が、ものづくりの根底を支える。工芸品は空間の装飾となる「調度品」でなければならないという志向がある。作り手である筆者も、それを念頭においたものづくりをしている。

京都の織物と焼き物は伝統産業と呼ばれています、織物の西陣織は歴史的に比較的古い部類に属します。一方焼き物も古いとおもわれますが焼き物の、京焼は日本全国の製陶地では後発の地のひとつです。後発地であることはいろいろな先進地の技法が導入され「京焼き」の質を高め需要の拡大につながり、世界中にコレクターを有する繁栄の現状を生み出す背景にもなっている。

京焼きの歴史は、桃山時代の終期に端を発すると伝えられている。実際、京焼として流通したのは、江戸時代であった。焼き物は、古くから土器や瓦を焼いていた場所から出土する。たとえば、信楽は紫香楽(しがらき)宮の瓦を焼く産地であったという背景があり、そこから信楽焼に発展した。京都では、粟田が焼き物の発祥地の一つとされますが粟田も古くは瓦を焼く土地であった。

しかし、京都に焼き物が生まれたもう一つの要因として、茶の湯の文化がある。むしろ、茶の湯がなければ京都に焼き物はなかったともいえる。粟田の人々は、門跡寺院青連院の宮の庇護のもとに茶道具を制作してきた。これら茶の湯の道具としての焼き物を作る人々のなかから、仁清という有能な陶芸家が出現した、陶器の器肌に白化粧を施し色鮮やかな上絵具で装飾された色絵陶器を創造し、彼の力によって京焼きブランドが確立された。また、この時期、作品に評価を与える「目利き」の役割も重要であった。金森宗和、金閣寺の鳳林和尚という茶の湯の道具の有能な目利きがいて、京焼きをより洗練にみがきあげ発展させた、彼等の果たした役割は大きく、彼等の存在なしには、仁清の活躍もありえなかっただろう。

筆者の知人は、仁清の作品を収集していた。一度、倉に納められていたコレクションを見る機会があった。仁清が制作した国宝級の茶壺、茶碗に至るまで大小多くの知見した作品があった。仁清は一代で終わったのではなく、その息子が乾山のところで働いていたことが明らかとなっている。学術的な裏づけはないが、既出の家にあった作品すべてが、仁清自身が監督製作したものであると断定できない。仁清が仁和寺の窯場で焼いたもの以外に、彼の息子が「仁清のもの」と称して売りにだしたものが混入している疑いがある。

その証拠に、以下のようなエピソードが残っている。表千家が加賀の前田家に仁清の作品を斡旋したことがあった。前田家は、作品の出来が悪いと表千家へ文句を言った。結果、表千家は、それが二代目の作品であり、作品の出来も悪いことを認め、引き取ったとされる。仁清は確かに二代目も存在したようだ。しかし、作品の評価は、一代で途絶えてしまったといえる。京都の目利きの人々は、二代目仁清の才能を認めず、彼を助けることはしなかったようだ。

京焼きの有能な制作者として、次の京焼の新しい動向を開いたのは仁清から陶法書を伝授された弟子の乾山でした。弟子は師匠の作風をまねて、それを発展させることで、自らの作風を確立させるのが常ですが、確かに、乾山は仁清の弟子であり、仁清からさまざまなことを学びました、そして乾山が仁清を尊敬していたということは、残された種々のエピソードからも明らかであります。しかし乾山は仁清の作風は受け継がず、全く違う道を切り拓いた。仁清と乾山の関係は特殊なものですが、それが後の京焼の歴史的、文化的な方向性を決定づけたともいえる。

仁清の作風は、美しく巧みに描きこんでいくことに特徴があった。京都に茶の湯の道具、茶陶が出てきたとき、粟田の主力は銹絵(鉄と呉須で描いた所韻「銹絵染付」)であった。この技法は、職人たちが瀬戸や有田のような、当時の陶芸の先進地で学んできた。技法は移入されたものであったが、描法は全く異なるものを独自に創りあげた。銹絵において、釉薬の下絵は、瀬戸でもどこでも描かれるものである。しかし、粟田以外の土地では、それは筆を走らせる水墨画的なものであり、描かれるのは、抽象的な文様や漫画的な絵であった。逆に、粟田のそれは、トンボを描く際には眼まで描き込まれるほどに丹念である。仁清はそのような粟田のやり方をそのまま踏襲し、茶道のわびさびに代表される金森宗和等目利きの価値観にそう作品を生み出した。それらは、京都風にいえば、「はんなり」としたものであった。

一方で、乾山は、強烈に自らの個性がにじみ出るような作風を確立した。仁清の作品も仁清にしか作れないとも言えるが、仁清でなくとも作れたかもしれない、という感は否めない。それが仁清のスタイルであった。しかし、乾山の場合、乾山でしか出せないような個性の強い作風であった。

焼き物への考え方も、乾山は仁清とは全くちがったものであった。仁清は自らの作った作品を「宝物」のように扱った。自らの作品をもつ人に対しても、個々の作品を用いる場所を「これは床の間で使え」「四畳半の和室で使え」と指示することも多かった。一方で、乾山は全く逆であった。乾山のやり方のなかでも、一番画期的であったのは、「町売り」であった。金森宗和などの「目利き」による仲立ちの売買をやめ、買いたいという人に直接売った。このように乾山は、師匠とは違った作風や作品の扱いに対する考え方をもって焼き物師としての道を歩んだ。

また、乾山の作品には、実用性が高いものが多い。彼は、買い手が家宝のように扱うことよりも、楽しんで使うことを望んでいたのである。しかし自分の作品を「宝物」として扱うことを求めなかったが、自らの作品に込められた意図を読み取ることは切に望んでいた。

乾山は京都の豪商であった雁金屋、尾形家の一員として生まれ、京都で育った。彼は、幼い頃から土地に対する愛着が強かった。京都で、自らが何をなすべきか、あるいは、どうすれば才を伸ばすことができるかを考えていた。

そのため、創作の場においても「京都人の視点」を常に意識していた。乾山はいつもどこでも「京都の尾形乾山」でなければならなかった。乾山は60歳になってから江戸に出て、さらに佐野(栃木)でも活動をする。しかし、乾山のアイデンティティの拠り所が、京都を離れることはなかったであろう。

以上の話から、京焼きの立役者である仁清と乾山の師弟関係は「京都」をものづくりの根底に意識するという、土地の結びつきが大きかったといえる。それを大前提とした上で、双方の作風が、個々の方向に発展し、伸びいったと解釈できるだろう。

4.宮永家の焼き物

 

筆者は昭和の終期に、京都商工会議所のプロジェクトの関連で、明治以前から100年以上続く家の調査に関係したことがある。結果、京都で100年以上続く家の生業は、和菓子屋が圧倒的に多かった。続いて、西陣織、室町の商社もみられた。意外だったのは、その中に陶器屋がほとんどみられなかったことである。粟田や清水、音羽といった京焼きの古いブランドがあるため、陶器屋も100年以上続いている家が当然多く存在するだろうと考えていた。しかし調査ではわずか4件のみであった。

その4件とは、楽家・永楽家・清水家・高橋家である。楽家と永楽家は茶の湯の宗家千家の道具を作る職方ですから続いていて当たり前である。楽家は楽焼というお家芸があり、永楽家には上絵彩色の技法がある。特異な存続の道を歩んでいたのは、清水家であった。清水家における作風を詳細に調べると、その年代に応じたさまざまな新たな動きがみられる。当代が時代性を見極めて、なんとか先代とは違った作風を確立しながら次の時代にバトンを渡せたことが、清水家が今日まで存続できた大きな要因であろうと考える。

これは、和菓子職人の家とは根本的に異なる点である。和菓子は技術と味を継いでいけばよい。一方、焼き物師はそのようにはいかない。焼き物師は、家として後世に受け継いでいけるものではない。作家自身の個性が求められ、技術の伝承だけでは評価を得られるものではない。京都の人々のものづくりへの眼は、シビアであり。それは、京都のもつ恐ろしい所の特殊性ともいえ、自身の作品制作の上でも励みにもなりもつとも留意すべきところでもある。

宮永家でいえば、筆者が陶芸の道に入るときに、やはりためらいがあったのは事実である。作家、工場経営、教師など、陶芸家にいたるまで多くの職業を経験してきた。違う職業に就いていても、陶芸家にいたるアプローチがしっかりしていればよいと思い、最終的に宮永家を継いだのである。

以前に開催した東山三代の展覧会は、三代それぞれの作風の差異を浮き彫りにする、大変興味深いものであった。例えば、写真1を参照する。これは、一代目の祖父がパリから帰って錦光山に入って創作した初期の粟田焼きの作品であり、アールヌーヴォー様式をそっくりそのまま用いた「かぶら」を形象化した花瓶である。

またモチーフになりにくい「蛾」をあしらったものや菊の模様がつけられている写真2、3も、様式としてはアールヌーヴォーであり、伝統の焼き物の街京都に新しい風をという並々ならぬ心意気が感じられる作品で、浅井忠を中心として結成された遊陶園時代のものである。

ところが、写真7以降になると、従来の作風とは異なるようすがみてとれる。写真7は、大正時代に作られたものである。日本や中国の古い作品を見て、影響を受けたのも一因であろう。ただこの転換は、祖父一人の志向ではなく、買い手の好みが変わったということも考えられる。祖父の後年から現在まで「青磁の宮永」「東山の青磁」とも称されるほど、青磁の作品が多く創出された。明治から大正という時代に、祖父にどのような心境の変化が起こったのか。祖父の心の内が理解できるまで、青磁の制作を手がけることに筆者はためらいがある。

 

二代 宮永東山二代目の父親は、大変几帳面な性格で、創作にはいつも作品の意図という「裏づけ」があった。父は、祖父と異なる作風で伸びようという意識があった。当時、父親は工場の経営も預かっていた。その経営を考慮して、需要の多い青磁を制作した。しかし父がもつとも力を注いだのは中近東で多く用いられた釉上彩画の技法を極めることで(写真2代14)彩釉萩図陶板はその代表作といえる。

私自身は、焼き物を造形の一つの手段と捉え、陶器をその「材料」と考えている。用途のないものは作らないというわけではないが、基本的には上記のような想いをもって創作に取り組んでいる。

東山三代の違いを初めて意識したのは、それぞれが制作した食器を比較した折であった。(写真初代14、2代15、3代9)日常に使うことを想定されて創られた食器は、いわゆる芸術としての作品とは違い、作風の差異が顕著である。それは、それぞれが生きた時代の生活環境を反映したものとなるためであろう。

また、職人の仕事のしかたも、時代によって異なる。祖父の時代は、親方である彼のもとに職人がおり、その下に弟子がつくという徒弟関係があった。当時は、給料よりも、親方の技術を学ぶために職人がつくという風潮があった。親方は、職人への敬意を給料で還元する。職人は、給料をもらうことが、よい作品づくりへの原動力ともなった。また職人として、自らの技術を伝承するために、弟子を傍においた。焼き物の食器の一つ一つの中に職人の心があるような時代であった。

父親の代には、食器一つに、ろくろ、絵描き、金襴絵、染め付けなど、数々の職人技が凝縮される、すばらしい作品が際立った。それらはある種「隙」がなく、むしろ商品というべきものであった。また職人にとって、自らの技術に対する報酬の高さが一番の関心事となった。祖父の代と父親の代では、職人の仕事意識に大きな隔たりがみられる。

また、その変化こそが、筆者が家業への興味を喪失した最大の原因であった。

写真9は、筆者が制作した青白磁の食器である。作品の多くは、ろくろを使わずに制作した。自身がろくろを使えないわけではない。しかしその腕は、それを専門にする職人ほど巧みではない。現在は、職人を使わずに一人で仕事をしている。工場をたたんだ理由は、職人とともにするような仕事をしなくなったからである。筆者は「自分の作品である」と誇れるものを創りたいと考えている。それならば、ろくろがなくても創れるものを創る。これまでの筆者の作品は、そのような意図から生まれたものであった。一方で「職人に頼らないものづくり」は、作家自身が、ものづくりの作業に工夫をこらす必要がある。そのような事情から考えてみると、筆者のものづくりの手法は、効率面では優れているとは評価しがたい。

5.京都でものを作るということ

 

「100円ショップ」が、街に多くみられるようになって久しい。100円ショップでは、多種多様な商品が売られている。ときおり娘等とそこに行くと、いつも驚くことがある。ある商品について、筆者が想像もしなかったような活用法を見出すからである。「安いものを巧みに利用する」という意味で、若者のセンスは鋭くなっていると感じる。

一方で、ものが安い価格で流通し、人々がそれを享受できることを手放しでは喜べない。生活が安価なものだけで充足してしまうと、人々は、「買い物」をする必要がなくなる。「買い物」で、ものの価値を見極めるという眼力を養う機会を逸してしまうからである。


例えば、筆者が制作した湯のみが10000円であると仮定する。それに、ろくろ師に作業を依頼し、絵描きに彩色を任せる技術料を加えると、15000円はかかる。その湯のみは売れるかと考えると、答えはおそらく否であろう。一方で、筆者が「すべて自分で作ったもの」と証すれば、20000円でも売れるだろう。買い手のものの見方では、作家個人がひとりで制作したものには価値があるが、他の職人の技術が入ると、その価値が下がるとされるようである。逆に、筆者自身は、さまざまな職人の手が入った作品のほうに価値があると考えるため、買い手のものの見方には違和感がある。一方で、ものの価格は、売り手ではなく買い手がつけるものである。その買い手の側に、ものの価値を見極める眼力がないことは、作り手の立場からしてみれば、もはや「お手上げ」の状態である。

このようなジレンマを抱えているのは、焼き物の世界だけではない。例えば、料理などでも同じであろう。カリスマ的な集客力をもつ板前を揃え、雑誌に取り上げられるような京料理の店でも、そこで供されるのは「中の上」レベルのものであり、最上のものとはいえない。店舗の経営を考えると、最高の材料や器、調度を揃えることは不可能だからである。最高の質をもつものは、値段も「最高」となり、市場で供給できるものではなくなってしまう。

伝統的な技がこめられたものの文化を後代に伝えるためには、売り手(制作者)の技術の修練はもとより、買い手もその価値を見極める訓練が必要であると考える。買い手に作品に対する知識や理解がなければ、いくら価値があろうとも、そのものの伝承は見込めない。飽食暖衣の時代に生きる我々は、与えられるものを、あまりにも無意識に享受しすぎている。その結果が、現在の伝統産業の危機的状況を招いたのではないかと解釈している。

(2004年7月3日、生活美学研究所本年度第3回定例研究会における講演に基づく)